01.【精霊殺し】あるいは英雄になり損ねた者
体が、動かない。もう瞼を開けることすら覚束ない。
人の気配はするが、それが誰かもわからない。
「だれだ」
そう呟いたつもりだが、聴覚も失われているので、本当に声になったかもわからない。
そう思っている間にも身体的な何もかもが失われつつあったが、意識だけは明瞭だった。
意識だけが闇に浮かんでいる、あるいは光の中でたゆたっているような感覚だ。
そこには恐怖しか無かった。
何故、五感だけでなくこの意識も刈り取ってくれなかったのか。
もう、誰かの気配も感じられない。
もう、ここには心しかない。
寂しい。怖い。
感情だけが意識の世界を染めていく。
心が狂気に支配され、正気が喪われたとき、ようやく遅すぎた解放が訪れた。
◆
エディール島の東部、
北の精霊の力が強まるこの時期、山脈を隔てた東方といえども、その影響は受ける。
「炎熱の精霊が東から西に鞍替えして以来、島全体が微妙に寒冷化してるような気がするね。精霊は、慣れ親しんだ地から離れるとどうしても力が弱まっちゃうからなあ」
長身の青年が地面に穀物をまくと、鶏が勢いよく群がっていく。
穀物の巻き添えをくらい、鋭いくちばしにつつかれそうになった彼の肘を、少年が呆れ顔で引いた。
「鶏相手に気を抜くな。奴らは危険だ。鶏に討ち取られ、風の大精霊消滅す。とか、笑えないから勘弁してくれ」
「それは面白いね。きっと島全体大騒ぎだ」
「そして、この鶏が【精霊殺し】か」
少年の視線の先で、件の鶏はのんきに食事を続けている。少年が、憐れみのこもった表情を浮かべた。
「美味しくもない精霊を食べたせいで、狩られる羽目になるとは、不幸な鶏だ」
精霊の加護により成り立つこの島では、精霊に危害を加えることは禁忌にあたる。法の裁きを受けることもなく、万民に追い立てられ私刑により落命する。それが【精霊殺し】となったものの大方の末路だ。
「他人事でもないけどな」
少年は自嘲混じりのどこか疲れた笑みを浮かべた。そんな彼の頭に、励ますように青年の手がのせられた。
「他人事でしょう。君と私、仲良しだし」
「どこが?」
「一緒に鶏の世話やってるところとか」
「それは、否定出来ない事実だけどさあ……」
少年の表情が苦いものに変わる。一瞬言葉遣いが崩れ、瞳が揺れた。が、彼の榛色の瞳はすぐに頑なな光を取り戻した。
「全力で否定する。僕は、鶏の餌を他人の頭に撒くような精霊と仲良くなった覚えはない」
「あ」
目を丸くした青年が手を除けると、少年の薄茶の髪に餌が乗っていた。柔らかい髪の根元まで細かい穀物はしっかりと入り込んでしまっている。がっちりと捉えられたそれは、簡単に払えそうになかった。
「ご、ごめんよ」
うろたえる青年から、少年は視線を逸らした。言葉の割に、その顔に怒りは浮かんでいなかった。
「その行為自体は別に構わない。……その鶏が、僕の頭を襲わない限りは」
少年の視線の先には、一羽の鶏がいた。先ほど【精霊殺し】になりかけた鶏に、とさかの感じが似ていた。その鶏は、少年の頭をじっと見詰めている。少年の頭上にご馳走があることに気づいているらしい。
「うわあ、飢えたケダモノの目だよ」
「獲物を見定める目だな」
「あ、あっちに行きな!」
青年が新しい穀物を撒くと、鶏は少年の頭からあっさりと興味を逸らし、仲間とともにそちらに駆け寄っていく。
少年は少しだけ、残念そうな表情を浮かべた。
「諦めず、僕を倒していれば彼は英雄になれただろうに」
「君がアレに倒されるようなことがあれば、私は今晩のメニューを鶏の煮込みにしていただろうね」
「……草原の御方は、残酷なことをおっしゃる」
「君のほうが、自分自身に残酷でしょうに。てか、その草原の御方って言うのやめて。御方ってなんだよ御方って」
「じゃあ、御方を取っ払って、草原の」
「それはそれで嫌だ……」
「エルセル様」
「敬称不要」
「じゃあやっぱ、草原の」
「なんで素直にエルセルじゃあ駄目なのさ……」
青年――風の大精霊、東部草原の御方、エルセル等、沢山の呼び名を持つ彼はうなだれる。
この調子では、毎日繰り返されている風の精霊の呼び名についての議論は、今日も決着がつきそうにない。精霊は重くため息をついた。
「カイリはひねくれ者だあ……」
「ひねくれついでに、掃除が全く進んでない、と小言も追加してやる」
カイリと呼ばれた少年は、全く手がつけられていない鶏小屋を指差して言う。言葉の鋭さの割に、表情に険は浮かんでいない。ただ、どこか困ったような雰囲気が漂っているだけだ。
「! 確かに不味いねえ。遅れるとドンドン朝食が遠のいていく!」
「草原のは、精霊だから食事いらないけどな」
「美味しく味わえるけどね。……って、ちょっと待って。やっぱり今日はその名前に決定なんだ……。御方よりはマシだけど、マシなんだけどさあ……」
つまらない会話をしながら、二人は鶏小屋掃除に精を出した。
掃除が終わった頃には、どの鳥が【精霊殺し】、あるいは英雄になり損ねた鶏なのか、区別がつかなくなっていた。