Snowdrop - 第一話『トゥオル雪原の魔物』

01.谷間の村

 白く染まったイールマの谷を、精霊使いジゼル・ルニエは森沿いに北に向かっていた。
 目指す場所は、北の突き当たりにあるはずの、ミエラという名の小さな村落だ。
 膝下まで積もった雪を掻き分け、難儀しながら雪中を歩いていた彼女は、不意に足を止めた。静謐な雪の野に、自分以外の生命の気配を感じたからだ。
 ジゼルは静かに視線を西の森に向けた。
 木々と雪に阻まれ相手の姿は見えないが、強烈な殺気はジゼルの元にはっきりと届いている。邪気が含まれたそれは、ほぼ間違いなく魔物のものだ。魔物専門の討伐者である彼女は、自身の経験からそう判断した。
「こいつが目的の魔物だったり……んなわけないか」
 ジゼルは相手が今回の討伐対象である可能性を考えた。しかし、その魔物がこの辺りに出現するという情報は与えられていない。よって却下。
 なんにせよ、殺気を向けられた以上、応戦以外選択の余地は無い。
 相手がなんであれ、やることは確実に相手を倒すことだけだ。
 余計な思考を打ち消し、改めて気配を読み直す。そうしてわかったのは、相手には純粋な殺気と純粋な欲求以外のものがほとんど存在していないということだ。要するに、気配が単純だった。
(動物が、ちょっと凶暴になった奴……かな)
 気配から相手との距離を測り、彼女は剣を抜き構えた。
 直後、ジゼルの動きに反応したのか、西の森から音も無く何かが飛び出して来る。
 ジゼルの目がとらえたものは、茶色い毛皮を持った大柄な魔物だ。一瞬合った濁った赤い瞳が、ジゼルを餌だと定めていた。魔物はそのまま、彼女に向かい突進する。
 イノシシのようなずんぐりとした体躯で、雪上を滑る様に走る姿に、ジゼルは目を瞠る。その動きはいっそ華麗だと言っても良かった。今この瞬間も雪に足をとられている自分とは大違いだと考えると、何となく笑みが浮かんだ。
「さっすが、雪国の魔物!」
 その移動能力を少しでいいから分けてほしいとジゼルは思う。本音を洩らすと羨ましい。
 本当に雪というものは厄介だ。足をとられるからと言って踏み固めると今度は滑る。雪上での切った張ったの大立ち回りは、慣れないジゼルにとって酷く分が悪い。
 一撃で切り倒せるような魔物なら、後の姿勢のことを考えず確実に一太刀で屠ることを選ぶ。しかし、あの巨体をそうするには、ジゼルの腕力はいささか心許ない。
(仕方ないか)
 ジゼルは剣を使うことを止めた。
 構えていた剣を持ちかえ、杖代わりに雪に突き立てる。
「――」
 瞬間、世界に満ちていた力が、剣を中心にその性質を変えた。
 理力が見える人間なら、世界の色が変わったようにも思えただろう。
 ジゼルの意思に従うように、力は形を帯び始める。
 それは彼女が『精霊使い』たる証、精霊の力だった。
『      』
 ジゼルが呟くと、集まった力は完全に実体を持ち、鋭利な土柱となる。雪下から飛び出したそれは、魔物を正確に貫いた。
 雪の野に、断末魔の叫びが響く。
 土柱が地中に消えた時には、魔物は絶命していた。
 剣を突き立ててから、数呼吸ほどの時間しか経っていなかった。
 その体が魔力と躯に分離し、魔力の方が世界に食われるのを確かめたジゼルは、少しだけ眉尻を下げた。
 周辺から、自分以外の気配が失われたことを確かめ、刃物として使われなかった剣を、外套で拭い鞘に戻す。
 白銀世界に静寂が戻った。

 交戦場所から少し距離をとったジゼルは、もう一度立ち止まり、物入れから地図と磁石を取り出した。
 ついでに、方角と現在位置を確かめておくことにしたのだ。
 舞い落ちる雪に視界を邪魔されることに辟易しながら、ジゼルは手元の地図と周囲の地形を見比べた。
 谷の東側、雪が積もりわかりづらいが、急な段差のある特徴的な階段状の地形が広がっている。谷の西側に南北に細く長く連なっていた針葉樹の森は、この少し先では谷の中央付近まで広がりを見せていた。
 地図と地形を見比べ、現在地を確認した彼女は小さく頷く。
 余計な時間を食ったものの、今までのペースから考えて日没までには着きそうだ。むしろ多少の余裕がある。そのことにジゼルは、ほっと白い息をついた。
 もしかしたら日がある内に村に辿り着けないかもしれない。そんな漠然とした不安は払拭された。
 谷の入り口に設えられた小屋から、雪と木々に隠された小さな村までの行程。
 それは本来、魔物狩りを生業にしているジゼルには問題の無い距離であったが、慣れない雪中歩行をするにはいささか不安を伴うものだった。
 朝からたまに休憩を挟みつつ歩き通してきたが、日は既に西側に傾いている。
 夜間歩行と不時泊用の装備は勿論持っていたが、雪中の素人であるジゼルはこの極寒の中、独力で無事に夜明けを迎えられる自信など微塵も無かった。
 彼女が浮かべた表情は、寒さに引き攣ってはいたが、安堵の笑顔だ。
 地図を袋の中に突っ込み、ずれかけていた大きな荷物を背負いなおしたジゼルは、あと一息と自分を励まし雪道に足を踏み出した。



 三ヶ月前、北のトゥオル地方イールマの谷の奥深きに存在するミエラ村から、東都カレルの精霊使いギルドに一通の依頼書が届いた。
 精霊使いジゼル・ルニエを名指しで送られてきたその依頼書には、前金と地図が同封されていた。
『トゥオル雪原の魔物を退治して欲しい』
 依頼書に書かれた内容は、要約すればこのようなものだった。
 五年程前、突如現れた雪の魔物が、近くにあった村落を一つ壊滅させ、その後東のトゥオル雪原に住み着いたという。
 何かの関連性があるのか、その魔物が現れて以来年々周辺地域の冷気は増し、冬越しできなくなったいくつかの村が住み慣れた故郷を捨てることを余儀なくされたらしい。
 イールマの谷は雪原とは山を挟んでいるので、なんとか乗り切ってこられたが、今冬は越冬できる見込みが無い。このままではミエラの村も廃村となった村落と同じ運命を辿ることとなるだろうと、依頼主は嘆いていた。依頼書の最後は『助けてほしい』という言葉で締めくくられていた。
 勿論、村の連中もただ手をこまねいて見ていたわけではなく、何度か魔物に挑んだらしい。しかし、素人の腕では魔物を倒すどころか、魔物の手下を倒すことも出来なかったようだ。
 このような依頼がジゼル個人に名指しで舞い込むのはこれがはじめてではなかった。彼女はそれなりに名の知られた魔物討伐専門の精霊使いだ。
 貧乏くじのジゼル。などという笑えない二つ名もあるが、基本的に評判は良い。
 おそらく彼らは、『専門の魔物討伐者なら、あるいは』と思ったのだろう。

 本当のところ、依頼を見たジゼルはトゥオル雪原は遠すぎると思った。そして、内容の割に報酬が安すぎるとも。
 同封されていた前金ではトゥオル地方までの旅費にもならなかったし、提示されていた報酬は最近受けた同種の仕事の半額以下だったのだ。
 仲介人は断れと言ったし、同業の仲間達は呆れた顔をしたし、ジゼル自身も断るべきだと思った。
 これは、あまりにも割に合わない仕事だった。
 しかし、自身も故郷に帰ることがままならぬ身であるジゼルは、『故郷を捨てなければならない』と訴え嘆くこの依頼を、他人事であると放っておくことが出来なかった。
 お人よしといえば聞こえはいいが、単純に情に流されやすいのだ。そういう部分が例の二つ名”貧乏くじのジゼル”たる所以である。
 そのような経緯で依頼を引き受けた彼女は、道中細かな仕事をこなし旅費を稼ぎながらイールマの谷に辿り着いたのだ。



 (道中も思ったが、これは酷いな)
 ミエラ村の入り口をくぐったジゼルは、眉を顰めた。
 まだ秋口だというのに、村は雪に埋もれていた。
 万年凍土であるトゥオル雪原の北の果てならともかく、イールマの谷の寒さはここまで厳しくなかったはずだ。そうでなければ、人が住み着くことさえ出来なかっただろう。
 異常気象を自身の目で確かめたジゼルは、依頼書に書かれていた『越冬できる見込みが無い』という言葉を思い出す。
 これでは、確かに今年の冬を越せそうに無かった。このまま本格的な冬を迎えれば、この村がどうなるかは想像に難くない。
 重い気持ちになったジゼルは、村落の真ん中まで歩を進めた。
「人っ子一人いないなあ」
 村の広場と思しき場所に立ち、周囲を見回すがジゼルの視界に人の姿は映らない。
 静寂と雪に埋もれた町並みが目に入るだけだ。
 自分の到着は間に合わず、既に村は全滅したのではないか。ジゼルは一瞬そんな思いにとらわれたが、よく見ると新しい雪掻きの跡は見られたし、薄っすらと生き物――人間の気配がある。おそらく、村民は家に篭ってこの寒さをやり過ごしているのだろう。
 立ち尽くして考えていても埒が明かず、何よりも動いていなければ酷く寒い。
 ジゼルは村の中で一番大きな建物にあたりをつけ、雪を掻き分けながらそこを目指した。

 辿り着いた建物も、やはり雪に埋もれていた。
 真っ白になっている門柱をジゼルが撫でると、雪の下から大きく彫られたトゥオル地方領主の紋と、その下に従属するように彫られた紋が出てきた。
 従属する紋はおそらくこの村を表すものだ。同じ物が依頼書のサインの横に押印されていた。
 ジゼルはそこが村長の屋敷だと確信し、門をくぐった。
 庭を抜け、屋敷の入り口に着いたジゼルは、霜が張り付いた扉を叩こうとして、手を止めた。
 自分の今の格好に引っかかりを覚えたのだ。
 帽子を目深に被り、おまけに外套は分厚く体型は不明。今のジゼルはおそらく鼻から下しか見えていない。喋らなければ男女の区別さえ付かないだろう。
 現在のジゼルの身なりを一言で表現するなら『正体不明』だ。
(余所者がこんな格好で現れるのは不味いよなあ。大抵ろくなことにならない)
 それは、長年魔物狩りの依頼を受ける間に培われた経験則だ。
 心中でため息をつきながら、ジゼルは帽子を脱ぎ、中に巻いていた布もずらした。
 布を通さない外気は冷たく皮膚を刺す。
 冷気で耳が痛くなる前にさっさと事を済まそうと、ジゼルは大きく息を吸い込んだ。
「誰か、いないか?」
 木製の扉を叩き、しばし待つ。やがて、扉は内側から開かれた。
 顔を出したのは、若い男だ。
 男は不審げに、もっと平たく言うと不快げに表情を歪め「誰だ」とジゼルに問うた。
 それは田舎ではありがちな反応だった。ジゼルは内心うんざりとしながら手袋を外し、冷気にかじかんだ指で、荷物から依頼書を取り出した。
「魔物退治の依頼を受けたジゼル・ルニエだ。依頼了承の連絡がギルドから届かなかったか?」
「!」
 ジゼルが依頼書を見せ名乗ると、男は目を瞠る。見る間にその表情が険しいものから一変する。
 彼は、上ずった声で叫んだ。
「ほ、本当に来てくれたのか、精霊使い!」
 その表情は喜色に満ちていた。

 招き入れられた屋内は暖かかった。
 二重になった窓と扉は、しっかりと外気から部屋のぬくもりを保護しているようだ。
 暖炉で爆ぜる薪の音さえも、ジゼルは暖かく感じた。
 ジゼルがそのことに笑みを零すと、その気配に気付いたのか、男は苦く笑った。
「今はいいが、暖炉にくべる薪が、いつまでもつかわからないんだ」
 確かに、秋口からこの状態では冬越しの準備などろくに出来そうに無い。
 更に雪と寒気が深まる前に村を捨て、ジゼルも通った谷を抜け南に逃げるしかなさそうだ。しかし、魔物も出るあの雪道を、この村の女子供は無事に越えられるのだろうか。雪国育ちだという村民の環境を考慮に入れても、彼女には厳しく思えた。

 やがて、部屋の温度に暖められ、ジゼルの外套やブーツに貼り付いていた雪が溶けはじめた。ジゼルは、慌てて男に声をかけた。
「……これ、どうしよう?」
 滴り床を汚す水をどうすればよいものか。
 しかし、彼は構わないと首を振った。
「いつものことだから気にしなくていい。その湿った服はそこの暖炉の前で、椅子に掛けて干すといいよ。……多分、その重装備で室内にいるのは逆にきついだろう」
 男はジゼルの服装に苦笑する。
「そうだね。ありがとう、そうさせてもらうよ」
 ジゼルが頷くと、男は「地図や魔物の資料を取ってくる」と、奥の部屋に消えていった。
「気を使ってくれてるなあ」
 気遣いに感謝したジゼルは、早速彼の勧めに従う。
 手袋と帽子を部屋のテーブルの上に、そして背嚢を床に下ろしたジゼルは、まず剣帯を外した。
 外套を締めるように装着したそれを外さなければ、着替えることが出来ないからだ。
 分厚い防寒具を順番に脱ぎ、言われたとおりそれらを椅子に掛ける。
 思い切って中の服も新しいものに着替え、元々着ていた物は布にくるみ背嚢に仕舞った。
 普段と変わりない服装になったジゼルは、再び剣帯を着装し、剣を佩く。
 落ち着き、少し身体の力が抜けた。

 精神に余裕が出来たジゼルは、男が戻ってくるまで、少し体を動かすことにした。雪道でいつもと違う動きをしていたせいか、どうも全身に違和感があったのだ。
 そうしてすぐにわかったのは、体が冷え動きが鈍っていることだった。歩いている時は暑くさえ感じたのに、末端は氷のように冷え切っている。
 そのことにジゼルが顔をしかめていると、扉を叩く音がした。
 返事をすると、男が入室する。言っていた資料云々はやはり方便だったらしく、その手には暖かそうな湯気がのぼるカップが持たれていた。
 男は、そのカップをテーブルの上に置き、椅子を引いた。
「好みが分かれる味だが、温まると思う」
「ありがとう」
 彼に渡された少しとろみのついた飲み物に、ジゼルはありがたく口をつけた。
 ぬくもりと共に広がる甘味。その中に潜む仄かな辛味。そして癖のある香り。
 飲みなれない味だが、ジゼルの味覚は不味いとは感じなかった。
「結構いける」
 猫舌な彼女がカップで手を暖めながらちびちびとそれを飲んでいると、不意に男と目が合った。
「なに?」
 ジゼルが問いかけると、彼はばつが悪そうに頭をかく。
「銀髪の精霊使い、討伐者・ジゼル・ルニエ。本当に女の人なんだな」
 男の言葉に、ジゼルは苦笑する。
「わざわざ『ジゼル・ルニエ』なんて名乗る男はいないよ。こういう仕事をしてる者は特に」
『ジゼル』はエディール島における、一般的な女性名だ。
 特に、彼女の故郷である西都周辺でよく見られる、ありふれた名前だった。
 ジゼルのような生業の者は、女性であると侮られることが多い。女性だというだけで依頼を回してもらえないことも良くあることだ。仮に男性が酔狂な親から女性名を与えられたのだったとしても、何らかの通名で通すはずだ。
 ジゼルのように本当に女性である場合、偽名を名乗ったところでどうせ依頼主と顔を合わせると女だとわかるので、特に隠してはいないが。
「名前だけで判断されることも多いんだよなあ……」
 駆け出しだった頃のことを思い出したジゼルの眉が、困ったように下がる。
「あ、そうだ」
 ふと、ジゼルは男の名前を聞いていないことに気付いた。
 依頼書には『村長ロヨン・ミエラ』と依頼者の名が記されていたが、男自身にロヨン本人であるかを確かめたわけではない。村長というには彼は若すぎる気がした。
「あんたの名前、聞いてなかった」
 話の流れから、大体ジゼルの言葉を予測していたのだろう。男は柔らかに返事した。
「ああ、俺はロワン。村長ロヨン・ミエラの息子だよ」